雑兵猫之助の記

文才も無いしとりとめも無いし・・・

大河ドラマで女性を主役するにあたって・・・其の二(推古天皇編)

神功皇后の次に現れた歴史上有名な女性は第33代天皇の「推古天皇」です。このお方を主役に据えた大河級のドラマは是非見てみたいです。飯豊皇女は天皇の位にあった説も有るので100%初の女性天皇とまでは断言はしませんが、在位期間は35年前後にも及びその間に大きな動乱は起きず寧ろ日本が発展していった事を考えると、もちろん複雑な事情下で即位し蘇我馬子厩戸王子の協力があっての事とは思いますが、彼女自身にも統治者としての資質が十二分にあったと考えるのはごく自然な事と思います。実際に彼女は天皇践祚前のまだ「豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)」として、故敏達天皇の皇太后であった時代から崇峻天皇践祚の詔を出すなど、群臣を納得させるだけの地位にあった事は間違いないと思います。そして崩御するまでの長い期間に渡って政治の中枢に居た女性なのです。

 

まだ推古天皇が皇太后であった時代の朝廷は、蘇我氏を中心とする臣姓豪族と物部氏を中心とする連姓豪族の間で権力闘争が続いていた時代です。推古天皇の夫である敏達天皇崩御推古天皇の同母弟である用明天皇天皇に即位しますが、2年も経たない内に病を得て崩御してしまいます。用明天皇の病状が進む中で次の天皇を誰にするかを巡って大臣蘇我馬子と大連物部守屋の対立が先鋭化していきます。また以前から皇位を望んでいた穴穗部皇子と言う権力欲の強い推古天皇の異母弟が、物部守屋の支持を得て天皇即位の為の行動を活発化させていきました。この辺りから推古天皇が政治の表面に浮上し始めます。穴穗部皇子は天皇即位に向け推古天皇の支持を得ようとしますが、その行動が余りにも乱暴であった為推古天皇から拒絶されてしまいます。勢い余った穴穗部皇子は敏達天皇の寵臣で推古天皇の側近として仕えていた三輪君逆に問題があるとしてこれを攻め殺してしまいます。しかしこの事が原因で却って人心を失い最終的には大臣蘇我馬子の手によって政敵物部守屋と組んだ穴穗部皇子と協力者であった宅部皇子と共に推古天皇の裁可を得て誅殺されてしまいます。

 

自陣営の有力な皇位継承候補を失ってしまった物部守屋は対蘇我氏戦を覚悟し戦闘態勢を整えます。推古天皇の皇子や次期天皇となる穴穗部皇子の同母弟の泊瀬部皇子、用明天皇の皇子である厩戸王子らを自陣営に取り込んだ蘇我馬子は、守屋討伐の兵を進め軍事氏族で戦い慣れした物部氏に苦戦しますが最終的には勝利し、物部氏は政治の一線から姿を消します。この戦いでのハイライトは木に登って先頭指揮をする物部守屋を「迹見赤檮(とみのいちい)」と結構存在が謎の舎人が弓で討ち取ったところでしょうか。これにより蘇我陣営の勝利は決定的となり蘇我氏陣営に参加し年齢的にも的確であった泊瀬部皇子が推古天皇の詔により天皇践祚され第32代崇峻天皇として即位します。しかしこれで動乱が収まった訳ではありません。朝廷内で政敵が居なくなった蘇我馬子の権力は飛躍的に増大します。ところが穴穗部皇子の同母弟と言う事で資質が似ていたんでしょうか?崇峻天皇もおとなしく傀儡的に天皇の地位にいれば安泰だったのに徐々に蘇我馬子と対立し始めてしまうんですね。その対立が表面化し挙句は蘇我氏の配下の手によって崇峻天皇は弑逆されてしまいます。実はここまで確定的に史書に暗殺と書かれている天皇はこの人しかいません。記紀蘇我氏を悪として描いていますからどこまでが真相かはわかりませんが死後きちんとした殯(もがり)すら行われなかった事を考えると異常な死であった事は間違いないと思います。

 

しかし蘇我馬子の大きな誤算は当時の皇族には妙齢の皇位継承権のある皇子が居なかった事です。そこで長年政権の中枢にいて、発言に一定の重みもあり群臣を統率させる事が出来、しかも母に蘇我稲目の娘を持ち蘇我氏とも関わりの深く蘇我氏にとっても都合の良い推古天皇が、多分次の天皇候補が現れるまでの間の繋ぎとして天皇に即位する事が最良の選択となる状況が生まれたと考えられます。こうして(公式には)日本初の女性天皇である推古天皇が誕生したのです。しかしながらやはり推古天皇自体に天皇としての資質があったからこそ選ばれたんだと思いますので、どうせ蘇我氏の傀儡なんだから誰でも良いとして選ばれたんではないと思っています。ここから推古天皇の在位期間のに日本は安定成長期に入ります。いろいろ諸説は有りますが、厩戸王子の摂政への登用・官位一二階の制定・遣隋使の派遣・十七条の憲法の発布等々です。勿論どこまでが厩戸皇子主導なのか?蘇我馬子主導なのか?それにどこまで推古天皇が関わったのかは本当のところは判りません。しかし推古天皇は比較的公平な考え方を持った頭脳明晰な女性とされており、国家的利益に反してまで蘇我氏に全面協力した様な人ではなかった伝わっていますので、まったく関わらなかったとは言えないと思います。

 

そんな推古天皇ですが晩年になると再び皇位継承問題が表面化してきます。厩戸王子の皇子である山背大兄皇子と蘇我入鹿の押す田村皇子と間で皇位継承争いが表面化し始めたのです。実は推古天皇にも敏達天皇との間に竹田皇子と言う子供がいましたが、推古天皇即以前後に早世したと言われています。皇位継承争いが表面化したのは蘇我氏の中心が比較的おとなしい蝦夷から若い入鹿に変わっていた事も原因と言われています。推古天皇は相争う両者を崩御前に枕元に呼び相争わぬよう諭しただけで後継者を指名せずに崩御してしまいます。推古天皇崩御蘇我入鹿による山背皇子一族攻めと滅亡、乙巳の変による蘇我氏滅亡から大化の改新へと再び日本は動乱の時代を迎えます。彼女は死にあたって先に亡くなった竹田皇子の元に合祀して欲しいと頼んでいたようです。推古天皇は当時としては長命な七五歳と言う年齢で崩御します。

 

どうです?天皇家の事が物語の大きなウエイトを占める為に慎重に物語を構築する必要は有りますが、古代日本の発展期に女性として日本史に確かな足跡を残した聡明で美貌の女性、しかし我が子を早くに亡くし親族が相争う姿を若い時と最晩年に味わざるを得なかった悲しみもあったであろう女性・・・個人的に大河的な物語にし得る魅力的なお方だと思うんですがね。

 

次は鸕野讚良皇女後の持統天皇を取り上げてみたいと思います。