雑兵猫之助の記

文才も無いしとりとめも無いし・・・

少し補足的説明・・・

臣系氏族と連系氏族が対立と書きましたが、氏族としての成り立ちと性格の違いに起因していると思います。多くの臣系氏族は葛城・平群蘇我・巨勢・春日等の地名を名乗っている者が殆どなのに対し、連姓氏族は物部・中臣・忌部・大伴・土師等職務を表す言葉を名乗っている事が殆どです。臣姓氏族の殆どが本拠とする地域地域の王的な存在であり天皇家と並ぶ程の地位にあった時期もあったと考えられます。それに対し連姓氏族はあくまで天皇家の中の職務を行う配下であり天皇家との間には決定的な身分差があったと考えられます。この身分差が物凄く判り易いのが臣姓氏族の娘は天皇家の正式な后となる事が出来るのに対し、連姓氏族の娘は嬪とされる側室になるのがやっとだった事です。

 

一般的に臣姓氏族は天皇家を中にしながらも豪族の合議による政治形態を目指し、連姓氏族は天皇家の地位を高め天皇家を中心とした政治形態を目指していたと言われています。また宗教対立が表面化したのは神の子孫である天皇家を奉じ後の神道に繋がる宗教の祭儀面を司っていた連姓氏族にとって仏教を受け入れる事は自身の権力構造が揺らぐ事になり受け入れ難かったと言う側面があったと思われます。

 

いくら軍事力に優れた物部氏を相手にしたとは言え豪族連合を形成した蘇我氏が苦戦した背景には、大伴金村の失政以来勢力的には小さくなっていた可能性があるとは言え当時最大の軍事氏族である大伴氏が積極的には協力していなかった可能性もあります。

 

物部氏の敗戦により豪族合議制が決定的になりますが、聖徳太子のモデルである厩戸王子と推古天皇蘇我氏側と妥協しつつも天皇家の地位向上を考えていたと推察する事も出来ます。一方の蘇我氏も誰が主導して行うかの違いはあっても天皇家の地位を上げ国家の体制を整えて行く事には協力的もしくは主導的だったと思います。蘇我氏は配下に渡来系氏族を多く抱え対外政策にも積極的で先進的な氏族と言われており、当時の先進国である中国大陸の国家制度である律令制についても推進派だったと考えられます。従って目指す方向は大筋では天皇家蘇我氏も同じだった可能性があるのです。では何故乙巳の変が起き蘇我氏が政権中枢から排除されたのかは持統天皇の事を書いてから考えてみたいと思います。